飛行機の音が聴こえただけで震えが止まらなくなったり、
産婦人科の看板を目にしただけで息苦しくなって倒れたりと、
自分で自分をコントロールできなくなる瞬間の増加が、
週に1〜3回程度の外出にも、かなりのエネルギーを必要とさせた。
それらが犯罪被害者などに多く残されるという障害・PTSD
(心的外傷後ストレス障害)の症状の一つであると知ったのは、
それから何年も後のことだった。
16歳。通っていた専修学校では、最年少だった。
周囲は皆、高校卒業後に入学した、ハタチ前後の若者。
仲良くなれたのは、ただ一人。
大阪から上京して来ていた、3つ年上の女の子だった。
彼女は、レッスンの度に講師から鼻にかかる声や滑舌の悪さを指摘され、
唄への苦手意識を強める一方であったコイツに、
「私、ルカの声好きやで」と言ってくれた。
そして、まだ拙さばかりが目立っていたコイツのデモテープを聴き、
涙を流して感動してくれた。
彼女もまた、複雑な家庭環境で育った子だった。
酒やタバコに手を出したのは、小学校時代。
苦労を重ねながらも、とことん正直で好奇心旺盛だった彼女の辞書に、
遠慮という文字はなさげだった。
そんな彼女がある日、コイツにこう言った。
「ルカは頑張ってない。もっと頑張れるはず」
コイツはその言葉に背中を押されるように、家でも毎日歌いだし、
音源制作にも、ぐんと力を入れるようになった。
母親が小学校の音楽教師だったことが幸いし、機材は入手しやすかった。
シンセサイザー1台に、適当に音を打ち込み、
それを唄と共にマルチトラックレコーダーで録って行く。
メロディーしかない状態の曲に音を重ねて行く作業は、楽しくてたまらなかった。
当時は小室哲哉プロデュース作の全盛期。
まだヒット曲ばかりを聴いていたコイツは、露骨にその影響を受けつつも、
野島伸司脚本によるドラマに多用されていた辺りの
古い洋楽にも興味を持つようになり、
BOZ SCAGGSの「We're All Alone」、プロコル・ハルムの「青い影」、
10CCの「I'm Not In Love」といった曲をBGMに、小説を書いたりもした。
後に最高傑作と言われ続けることになる『迷子の瞳』も、この頃に生まれた曲だ。
そうして出来上がったテープは、
いつも電話や手紙をくれる親しい友人に配り、感想を募った。
当初ぶっちぎりで人気があったのは、
9歳の頃に生まれた『Lonely Birthday』という曲だった。
20回目の誕生日が、ちっとも喜ばしくない形で終わってしまうという、あれだ。
あまりの好評ぶりに、調子に乗ったコイツは、
それを有線のアマチュアミュージシャン支援番組に送ってみた。
するとこれが一発合格。番組史上最年少での採用となった。
コイツは飛び上がって喜び、すぐさま英治に報告した。
「やっと嬉しいことあったから、どうしても伝えたくてさ」
電話をするのは、半年振りぐらいのことだった。
「おめでとう」
その声は、やはり誰の声よりも胸に響いた。
「電話かけづらかった」
「なんで?」
「や、おめぇ誰だよってなことに…」
「それはない」
「憶えてた?」
「うん」
「寿明に伝言頼んだら、ダメ、アイツは絶対信じないって言われたよ」
「あぁ、寿明から聞いてたら信じなかった」
「私から聞くことは信じるんだ」
「信じてる」
英治の足は完治しておらず、また2週間ほど入院する必要があるとのことだった。
かろうじての進級、試験中で勉強しなければならない現状、彼女もおらず退屈な日々…
そんな話を聞いても、会いたいという気持ちにはならなかった。
また朗報があったら電話してもいいか訊ねたコイツに、
英治は自身の携帯電話の番号を教えてくれた。
そして、電話を切る時、コイツは英治に、初めて言われた。
「頑張ってね」と。
苦しみを打ち明け続けていた中学時代、
英治は一度たりとも、その言葉を口に出さなかった。
「ありがとう…」
目頭が熱くなるのが判った。本当に、頑張るべき時にいるのだと思った。
その思いは、時に逃げ出したくなるほど、闘わねばならない物を見せつけ続けた。
2005年10月15日
奮起
posted by コイツ at 00:00| U-17【回顧録】2005年08〜11月に連載。
